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理想の生活への一念

去年の今頃を思い返すと、私はまだ台湾にいて、行天宮近くの吉林路にあるワンルームマンションに住んでいました。
そこは私がこれまでに台湾で住んだ中で最も満足のいく場所でした。大家さんは良い人で、間取りは四角く、外に向かって大きな窓があり、何よりも、その家に独自の表札があったことが一番気に入っていました。少し残念だったのは、キッチンがなかったことと、住民票を移せなかったことくらいです。

寝坊さえしなければ、大抵は朝 9 時に起き、まずスマートフォンで出勤の打刻をして、それからビルの下にある Wemo(シェアスクーター)を探しました。当時半同棲だった彼女に声をかけてから家を出るのが日課でした。彼女のほうが出勤時間が遅かったので、そのまま私の部屋で寝続けていました。しかし、去年の今頃にはすでに別れ話が出ており、彼女のいる日常はあっという間に終わってしまいました。
通勤ルートは 1 年以上走り続けていましたが、台北市では炎天下や大雨の中で信号待ちをしながら、何度も二段階左折をこなさなければならなかったため、なるべく信号待ちの少ない経路をいくつか頭に入れておく必要がありました。
私が編み出した方法は、歩行者用信号の秒数を見ることでした。もし残り 10 秒を切っていれば、この交差点で二段階左折の待機をしても長くは待ちません。もし青信号に変わったばかりであれば、さらに 2〜3 個先の交差点まで進んでから待機することができます。
Wemo が予約できなかったり、雨が強すぎたりした稀なケースでは、MRT(地下鉄)に乗ることもありましたが、会社に着くまでに倍の時間がかかりました。
こうして書き出してみると、なんだか滑稽に思えます。なぜ仕事が始まる前から、あんなに自分を消耗させていたのか。当時の生活は一息つく暇もなく、たった 5 分の短縮するために、いつも焦ってばかりいました。
会社に着いて荷物を置くと、まず下のファミリーマートに行って、69 元(NTD)のアイスラテと肉まんの割引セットを買いました。オフィスビルのロビーで肉まんを食べながら漫画を読んでいると、さっきまで必死に急いでいた自分の行動が、すっかり無意味に思えてきました。そうしてぼんやりとしたまま、私の朝は始まるのでした
オフィスでの日々は単調で、メッセージの返信、会議、プログラミング、ドキュメント作成の繰り返しでした。自分が作っているブロダクトに価値を見出せず、達成感もほとんど感じられませんでした。チームは大きくなく、ブロダクトもさほど利益を上げているわけではないのに、社内政治だけは妙に激しかった。会社に対して言葉にできない不満を常に抱えており、それは今も変わりません。
定時は夜 7 時でしたが、時間ぴったりに帰ることはほとんどありませんでした。しかし退職が近づくにつれ、だんだんと定時に帰るようになり、時には早上がりさえするようになっていました。
仕事の後は、プログラミングをしたり、本を読んだり、とりとめのないことをして時間を過ごしました。今振り返ると、ただ闇雲に忙しくしていただけだったように思います。当時の努力は、より理想的な生活を追い求める助けにはならず、ただ自分を忙しくさせ、迷わせるだけでした。
寝る前には小説を読みました。主に伊坂幸太郎やブランドン・サンダーソンの作品です。うとうとしてきたら電気を消して眠る。映画『PERFECT DAYS』の平山さんが同じことをしているのを見た時は、思わず嬉しくなりました。
この時期は、私に強い断絶感をもたらしました。ここにいるのに、自分はここにいるべきではないと、いつも感じていました。台北のオフィスに座りながら、日本で働ける日を夢見て、毎日理想の生活から遠ざかっているような気がしていました。前に進めない自分への嫌悪と不満が積もり積もった末に、ついに、自分でも気づかないうちに、オーストラリア行きの片道切符を買ってしまったのです。
時間を半年分早送りして、9 月。私はオーストラリアのブリスベンにいて、青果工場で 1 ヶ月間カボチャを切り続けていました。この時期の生活はとてもシンプルでした。
最初は工場の隣にある小さな小屋に住んでいました。築百年近い、本当にボロボロの古い家でしたが、幸運なことに、すぐに同じ工場で働く台湾人の仲間たちに拾ってもらいました。その中の一人、E が私と部屋をシェアしてくれることになりました。E にとっては何のメリットもありません。家賃は変わらず、大家さんが私からもう 1 人分の家賃を受け取るだけだからです。知り合って 1 ヶ月も経たないうちに、こんなことをしてくれる人がいるなんて、今でも驚きと感謝の気持ちでいっぱいです。
私たちは毎日朝 6 時に起き、7 時前には工場に到着しなければなりません。私はコーヒーを淹れ、Aldi の超美味しいトースト(Chocolate Chip Brioche Sliced Loaf)を食べました。家を出る前には、手袋、ニット帽(こっそりイヤホンを隠せる)、水筒、そしてグミベアを必ず持ち、水筒には発泡性ビタミン剤を入れていました。
グミベアを持っていくのは自分の口寂しさのためでもありましたが、同僚たちが絶望するほど働いている時に、配って元気づけることもできました。
私たちは 5 人で、車 2 台に分かれて工場まで 10 分の道のりを通いました。仕事の内容は主に「死に物狂いでカボチャを切ること」です。詳しくは私が野菜工場で何をしているかを参照してください。後半になると私もかなり腕を上げ、その日の注文に応じてフォークリフトの運転手に在庫を依頼したり、ハンドパレットトラックを使って 300〜400 キロのカボチャや他の野菜が入ったビン(Bin)を押して運ぶのも得意になりました。

家に帰ると、まず全身に染みついた野菜の匂いを洗い流すためにシャワーを浴び、その後ソファで少しだらだらしてから、夕食と翌日の昼食用の弁当を作りました(後になって、夕食はルームメイトの E がよく作ってくれるようになりました)。彼らの家のリビングには大きなテレビがあり、一緒に恋愛リアリティショーやアニメ、YouTube を見ました。夕食後はほとんど何もする気が起きず、早めに寝るしかありませんでした。
オーストラリアでは毎日外食するわけにはいきません、高くつくうえに車も必要なので、数日に一度、Woolies、Coles、Aldi という 3 つの大型スーパーのどれかに買い出しに行きました。日用品を買う時は、基本的に何でも売っている Kmart に行き、故郷の味が恋しくなった時はアジアンスーパーに行きました。
工場で嫌なことがあった時は、仕事終わりに急に思い立って 40 分運転してマクドナルドを買いに行くこともありました。長くて単調な道のりを乗り越える方法は、音楽をかけて車の中でみんなで盛り上がるか、腹を割って話すかのどちらかでした。
私たちがよく足を運んだ市街地はサニーバンクで、ブリスベンのチャイナタウンとも呼ばれるエリアです。そこでよく迷客夏(Milksha:台湾発のタピオカミルクティーチェーン)を買いました。値段は違えど、味は本当に台湾と変わりませんでした。
彼ら 4 人はこの工場の仕事が終わったら全員台湾へ帰る予定で、それぞれすでに 1〜2 年オーストラリアで働いていたこともあり、休日の過ごし方がとても充実していました。ブリスベンを思う存分遊び尽くしてから帰りたいと考えていたのです。一度、彼らと一緒に湖畔へ遊びに行き、その後も台湾ナイトマーケット、ワーナー・ブラザース・ムービー・ワールド、サンシャイン・コーストなど、彼らの旅程にいくつか誘ってもらいました。彼らと出会えたのは本当に幸運でしたし、何も考えずについて行って一緒に遊べるのは、とても気が楽でした。
また、初めてカジノにも行きました。実際にはスロットマシンだけでしたが、私たちはそれを「パンパン」と呼んでいました。1 回につきだいたい 20〜50 豪ドルほどしか使わず、大きく勝つでも負けるでもなく、そのまま帰るといった感じでした。
工場の他の同僚たちもみんな良い人ばかりで、ほとんどが日本人でした。何度か一緒にバーベキューに出かけましたが、あの時の雰囲気が本当に好きでした。
オーストラリアでの生活は、大自然との深いつながりも感じさせてくれました。日光浴の楽しさを覚え、道路をカンガルーやコアラが歩いているのをよく見かけました。特にカンガルーが突然車の前に飛び出してくることが何度もあり、そのたびに急ブレーキを踏まされました。
この期間、私はソフトウェアエンジニアという自分のアイデンティティをいったん脇に置き、それまでの自己認識を少しずつ解体しながら、自分自身を作り直すことができました。少なくとも、以前ほど世の中を斜に構えて見ることはなくなったと思っています。
さらに時間を半年早送りして現在。私は日本にいて、スキー場での仕事を終える準備をしながら、ソフトウェアエンジニアとして復帰するために東京へ向かおうとしています。
ここでのアルバイトの日々は、実はオーストラリアでの生活とよく似ています。勤務時間が 8 時から 17 時に変わっただけです。最初は送迎バスで通勤していましたが、車内の雰囲気がいつもぎこちなかったため、途中から歩いて通勤するようになりました。30 分歩くことで気持ちがうまく切り替えられると気づいてからは、むしろそれが心地よくなりました。毎日だいたい 17,000 歩ほど歩いています。
仕事の内容についてはジップラインオペレーターの記事でひととおり紹介しました。幸いなことに、私の日本語も上達して同僚たちともっと深く話せるようになり、3 月のアルバイト生活はかなり快適なものでした。
その上、雪山でブランコを押す仕事も任されるようになりました。この仕事はなかなか理想的です。場所はジップラインのスタート地点のすぐ横で、スキーをしながら通りすがる人もいれば、隣のレストランで食事をしたり景色を眺めに来たりする人もいます。私は 9 時にそこへ行って待機し、チケットを買って上がってくるお客さんを待つか、通りすがりの人に声をかけます。お客さんがいない時は休憩室で自分の作業をすることができます。
草津での三食は、ほぼ全て自分で用意していました。外食の選択肢がかなり限られている(ラーメン、カレー、とんかつ、豚の生姜焼き)上に、観光客向けの価格設定だったからです。自炊した方が安くて栄養もとれます。ちなみに余談ですが、このスキー場では従業員に定期的にお米が支給されるのです。個人的には、それがなんだかおかしくて好きでした。
仕事の後はそのまま温泉へ行くか、気の合うルームメイトと一緒に夕食を食べるかのどちらかです。もうすぐここを離れることになるので、最近は通りにあるレストランにも足を運ぶようになりました。
部屋に戻ってからは、まずアニメを見てリラックスし、その後で日本語の勉強やその他のことをします。そのまま寝落ちしてしまうことも多いですが。『僕のヒーローアカデミア』を最初から見直し、水上悟志の『戦国妖狐』も読み終えました。そして先月から気持ちを固め、今は全力で就職活動に取り組み、ソフトウェアエンジニアとしての復帰を目指しています。
そもそも草津に来た理由はスノーボードを学びたかったからで、12 月 18 日にスキー場がオープンしてからは、休みの日はほぼ毎回ゲレンデに出ていました。滑らなかった日は、milet や鈴木愛理の推し活に行っていたからです。今シーズンはゼロからスノーボードを始めましたが、最後に大学のダンスサークルの先輩たちと越後湯沢で 3 日間思いきり滑り、その後は気持ちを切り替えて求職活動に専念することにしました。
草津での生活はブリスベンほど充実しておらず、日々もかなり単調でした。アルバイト以外の楽しみはスノーボードくらいで、時間が過ぎ去るスピードは想像以上に早かったです。まるでコロナ禍のあの 3 年間のように、変わり映えのしない毎日が、気づかないうちに時間を押しつぶしていきました。
それに、ここには車がないため、移動の自由を大きく失いました。
オーストラリアでは車を手に入れることがバックパッカーにとっても驚くほど簡単でしたが、日本に来てからは、免許の切り替え手続きが信じられないほど煩雑でした。群馬県は外国人に免許を切り替えさせたくないのではないかと思うほどです。オンライン予約は月に 1 日しか開放されず、しかも 10 分足らずで受付が終了してしまいます。車の名義変更もオーストラリアのようにスムーズにはいきません。オーストラリアでは外国人であることをほとんど意識しませんでしたが、日本では日本人と外国人がとても明確に線引きされていると感じます。
台湾でソフトウェアエンジニアをしていた頃は、ただ心が疲弊し、現状への不満ばかりが募っていました。今でもそれは頭では理解しています。しかし、台湾の良さを「感じる」ことができません。加えて、何かを「創りたい」という気持ちもあり、時間通りに終わる「負荷の低い仕事」を見つけて、終業後の時間を有効に使うべきではないかと、何度も自問しました。
しかし、実際に外へ出て肉体労働をしてみると、最初は単純な美しさを感じましたが、新鮮味が薄れるにつれて同じ作業の繰り返しに飽きてしまい、やはり成長の余地がある仕事をしたいと思うようになりました。
夢にまで見た日本に来たものの、期待していたほど嬉しくはありませんでした。ただ平々凡々とアルバイトをしているだけです。オーストラリアにいた頃、日本のスキー場でのアルバイトをどうしても見つけたくて、とても不安だったことを覚えています。しかし実際に来てしまえば、あっという間に見慣れた日常になってしまいました。
この 3 つの生活のうち、どれ一つとして「理想の生活」と呼べるものはありませんでした。オーストラリアでの日々だけが、おそらく私が唯一「今を生きていた」時間でした。あの頃は過去を手放し、未来のことも一時的に忘れていました。台湾で隣の芝生ばかりを眺めていた頃や、日本に留まるためにあくせくし始めた頃とは、確かに違います。それでも、理想とは言えません。
ふと、不安になることがあります。自分はこうしてどこへ行っても不満を抱え続け、永遠に現実と理想の狭間で生きていくのではないか、と。
そんなことを感じていたある日、仕事から寮に帰り、夕食を食べながら『戦国妖狐』を見ていると、仏教の「一念成仏」に似た展開に出会いました。元々「闇」であった妖怪が、一念によって衆生を救う神仏へと転化できるという設定です。一念によって妖怪から仏へと変わるというこの概念は、私に強い衝撃を与えました。
『シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラヴィカント』を読んでいる時も、ちょうどこんな一節に出会いました。「悟りとは、山の頂上で 30 年座禅を組んで初めて到達できる境地ではない。いつでもどこでも到達できるものだ。日常生活の毎日、毎瞬間、あなたはにわかに悟りを開くことができる。」
これもまた、深く考えさせられました。「理想の生活」への想像や追求も、同じような「一念(想い)」なのかもしれないと。もし私が常に「理想の生活」を探し続けているなら、永遠にそれを見つけることはできないでしょう。なぜなら、「探している」状態にある限り、私は決して「今」を直視していないからです。「今」を生きていなければ、生活を真に感じることは難しく、それが理想であるかどうかは、言うまでもありません。
それでも、今の私が考える「理想の生活」については話すことができます。快適な家(普通の間取り、広々とした空間、風通しが良く、キッチンがある)に住み、本当に大切に思える人たちと共に暮らし、仕事において私が追求したいことを満たす仕事をし、余暇には創作活動をし、趣味(今は推し活とスノーボード)を支えるだけの財力があり、そして好きな人たちと良好な関係を保つこと(この点については、おおよそ達成できていると思っています)。
今でも台湾には帰りたくないですし、草津を離れて東京へ行き、より理想に近い生活を送れることを期待しています。結局のところ、考え方を変えることは妥協を意味するわけではなく、何かを追求し続けることとも矛盾しないはずですから。
ただ、たとえその状態に到達したとしても、最初はとても満足するでしょうが、やがてまた不満を抱くようになるだろうという確信が、少しずつ強くなっています。オーストラリアと日本でしばらく過ごした後の、あの心境の変化と同じように。
一昨年 『PERFECT DAYS』 を観てから今に至るまで、ずっと心に残っているシーンがあります。毎朝家を出る時、平山さんが静かに空を見上げ、口元にかすかな笑みを浮かべる場面です。たった一つの穏やかな微笑みで新しい一日を迎えるその姿こそが、まさに「完璧な日々」の体現だと思います。
もし私も、早朝に家を出るその瞬間に、あのような笑みを浮かべることができたなら——理想の生活は、そう遠くないのかもしれません。

記事の初稿を読み、フィードバックをくれた min、YA-Xuan、そして Hyuanverse に感謝します。
今回はこれまでとは少し違う書き方をしてみました。皆さんからのご意見やフィードバックをお待ちしています。メール経由でも、どんな方法でもご連絡ください!
読んでいただき、ありがとうございました!